毎年まいとし12がつなかばばをぎたころ自問じもんします1)自問じもんする to ask oneself
今年ことしのクリスマスはどうごそうか」と。

「クリスマスなんて自分じぶんには関係かんけいない」基本的きほんてき2)basicallyにはそうおもっています。
しかし、なぜかここ数年すうねんは、この無為むい3)inactionごすことにうしろめたさ4)sense of guiltかんじるのです。さえない日常にちじょうおくっていることへの反動はんどう5)reactionなのか、「このをエンジョイせよ」と、なにかがわたしてる6)inciteのです。

今年ことし映画えいがこう」、ふとそうおもいました。

きみは。」をてみようと。

12がつ25にちよるわたし映画館えいがかんはいりました。

館内かんないは80~90%ほどの客入きゃくいりでした。半分はんぶん家族連かぞくづれれ、あと半分はんぶんがカップルです。一人ひとりているきゃくわたしだけのようでした。

あぶないやつ7)a dangerous manではないか?」両隣りょうどなりのカップルにおも空気くうきながれています。うしろのせき家族かぞくわたし着席ちゃくせきしてからずっと沈黙ちんもくしています。
わたしはゆっくりとコートをぎ「テロリストではない」ことをしめし、上映開始じょうえいかいしまでのあいだ行儀良ぎょうぎよ8)behave wellすごしました。

映画館えいがかんというのは不思議ふしぎ空間くうかんです。おな物語ものがたり鑑賞かんしょうするうちに、観客達かんきゃくたち一体感いったいかんまれ、最初さいしょきらっていた者同士ものどうし親近感しんきんかん9)sense of intimacyがわいてきます。映画館えいがかん映画えいがあたえる最大さいだい付加価値ふかかち10)added valueひとつに、このことの心地ここちよさがあるのではとおもいます。映画体験えいがたいけんつ「なんともえない11)indescribable感動かんどう」は、このようなところからるのかもれません。
映画館えいがかん必要ひつようのない映画えいがだった。」は「共有きょうゆうすべき感動かんどうのない映画えいがだった。」とえることができるのではないかとおもいます。

きみは。」は「共有きょうゆうすべき感動かんどうのある映画えいが」でした。

この映画えいがたいして、「言葉ことばにできる疑問ぎもん不満ふまん」はいくつもげることができますが、同時どうじに「いようのない衝撃しょうげき」や「みんなとこの世界せかいにもうちょっとたいかん」をかんじたことはいなめません12)いなめない cannot deny

以下いか物語ものがたり核心部分かくしんぶぶんれます。

はなばなれになった主人公しゅじんこう二人ふたり物語ものがたり最後さいごふたた出会であい、ハッピーエンドで映画えいがわるのですが、そのラストシーンをふく最後さいご数分間すうふんかんせられるのは、かがやきのせたつまらない日常にちじょうです。そして、映画えいがものはなすように突然とつぜんわります。ハッピーエンドにもかかわらず、わたし喪失感そうしつかん13)sense of lossのようなものをかんじました。

ながれるエンドロールを呆然ぼうぜん14)stunnedながめながら、わたし沢木耕太郎さわきこうたろう紀行小説きこうしょうせつ15)travel literature深夜特急しんやとっきゅう」の一節いっせつ16)a paragraphおもしていました。

沢木さわきがカトマンズで出会であった日本人にほんじん青年せいねんはなしです。

その青年せいねんはネパールじん彼女かのじょ結婚けっこんすべく準備じゅんびすすめていましたが、彼女かのじょ突然とつぜん、ほかのおとこ結婚けっこんすることを家族かぞくかれまえ表明ひょうめいします17)表明ひょうめいする  express

青年せいねんちのめされますが、あきらめませんでした。かれは「彼女かのじょだまされている」としんじ、「いつかそのことにがつく」ことをうたがいません。

沢木さわき青年せいねんこいについてこういています。

”もちろん『ボビー』は相思相愛そうしそうあい18) be in love with each otherですから、片思かたおもいいになってしまったかれ場合ばあいとはちがいますが、こいにおちるということの滑稽こっけい19)滑稽こっけい comical, ludicrousにおいてはわるところはありません。そして、その滑稽こっけいさにはどこかしらかがやかしいものが付着ふちゃくしているというところもていないことはありません。”

『ボビー』とはインドで上映じょうえいされていた「ロミオとジュリエット」のようなおもむき20)flavor映画えいがのことです。

悲恋ひれんわりそうであるにもかかわらず、いていておもわず微笑ほほえみがうかんできそうになります。うらやましいな、ともおもいます。とにかくこれほどはげしくこいすることができるというのはなにかであるはずです。”

青年せいねんくるしみのなかにいましたが、沢木さわきにはかがやかしくえたのでしょう。
以下いかのようにつづけます。

こい成就じょうじゅ21)achievementすればいいけれど、しなければしないでもいいようながします。このこいがもし成就じょうじゅしたら、そのとき滑稽こっけいさとかがやかしさのせた本当ほんとうのドラマがはじまるのかもしれません。”

青年せいねんこい行方ゆくえはわからず、永遠えいえんかがやかしいままですが、「きみは。」のこい成就じょうじゅします。映画えいがは「かがやかしさのせた本当ほんとうのドラマ」のぐちまでをえがき、突然とつぜんわります。「キラキラした荒唐無稽こうとうむけい22)preposterous恋愛劇れんあいげき」が本当ほんとうのドラマ(わたしのつまらない日常にちじょう)につながり、突然とつぜんわるのです。その衝撃しょうげきたるや、です。

10だいのキッズがこの映画えいがを好きな理由はわかりませんが、わたしの見方とは違っているとおもいます。かれらにとってこいかがやかしいですが滑稽こっけいではないでしょう。

自分じぶんが10だいから20だい前半ぜんはんころ、「いつかいまのことを青春せいしゅんだったとおもうのかな」とかんがえることはありました。しかし、自分じぶんが「滑稽こっけいだ」とはまるでおもいませんでした。いまかえると、当時とうじわたしはまさに青春せいしゅんなかにあり、滑稽こっけいだったのです。

ずかしいおもいを沢山たくさんしたからでしょうか、いつからか「あまり目立めだたずに、理性的りせいてき23)rationalにスマートに物事ものごと処理しょりしたい」そんなふうおもうようになりました。
そして、青春せいしゅんとの距離きょりは「滑稽こっけいさをおさえようとする度合どあい」に比例ひれいして24)in proportionひらいてきました。

理性りせい大事だいじですが、青春せいしゅんはやはりてがたい。

来年らいねんのテーマがまりました。
滑稽こっけいでOK、こいい!」
これでいきます。

それでは、みなさまいおとしを。

引用いんよう沢木耕太郎さわきこうたろう(1994)深夜特急しんやとっきゅう3かん 新潮社しんちょうしゃ

 

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